朝日新聞夕刊 2011年10月5日
濁る海 揺らぐ漁師の絆
馬毛島[3] 失われゆくもの

トッピー(トビウオ)小屋の前で網干し作業をする漁師たち=1960年代前後、鹿児島県西之表市馬毛島、平山匡利さん提供
 
 鹿児島県・種子島の漁師の多くは、西に12キロ離れた馬毛鳥の周辺で漁をする。エンジン船が普及するまでは、手こぎの和舟で海を渡った。5〜7月は季節移住で島に拠点を移し、共同でトビウオを取った。
 同県西之表市塰泊(あまどまり)の漁師浜田満夫さん(79)がトビウオ漁に加わったのは15歳の時だ。馬毛島では塰泊、洲之崎、池田など種子島の浦ごとに、かやぶき小屋が並ぶ「基地」で暮らした。
 毎年、浦の世話役「ベンザシ」を選ぶ。ベンザシは深夜1時ごろ「起きれー、起きれー」と小屋を回り、腹ごしらえを終えた頃「行こーろー、行こーろー」と出港を伝えた。彼が、島で一番高い岳之腰(たけのこし)(71メートル)に灯をともすと、漁開始の合図だ。海岸の海藻に産卵したトビウオが沖に出ていくところを狙い、船から広げた網で一網打尽にした。
 水揚げしたトビウオは浦ごとにまとめ、配分した。鮮魚で売るほか、開いて塩に漬け、天日で干した。テングサ漁の時期になると、女性や子どもも海を渡ってきた。漁師や農家の子がほとんどだった学校は、その時期を休みにした。
 トコブシ、イセエビ、カツオ、イカ……。豊かな漁場に恵まれた馬毛島を、漁師たちは「宝の島」と呼んだ。集まるキビナゴを猟って、その下にカツオ、海上には鳥が群がった。
 異変の発生は約10年前。馬毛島で開発工事が始まった時期に重なる。海が濁ったと漁師は嘆く。「潜ると5メートル先は見えない。3メートル先さえ見えない所もある」「魚が減った。海底に泥が積もって海藻が生えず、小魚が育たない。小魚を食べる魚も集まらなくなった」
 漁師の絆にも、ひびが入った。塰泊集落の正月2日は、大漁と航海安全を願う「船祝い」が恒例だった。公民館に大勢を招き、漁師たちが、魚をきれいに盛った膳を用意した。船祝い歌を、みんなで歌った。
 だが、10年ほど前から船祝いは途絶えている。集落の小屋や船着き場があった馬毛島の葉山港周辺の土地の「持ち分」を、集落の代表者らが開発業者に売ったのが発端だ。売却に反対する浜田さんら約20人が入会権を主張し、売買を無効とする裁判を起こしたことで、集落は分裂した。
 「馬毛陶で魚を取り、子どもを育てた。開発で住民の仲が悪うなった。魚が取れんで収入が減り、生活は奪われていくのに開発は止まらん」と、浜田さんはつぶやいた。(柏原愛)

馬毛島の自然を守る会・屋久島