朝日新聞夕刊 2011年10月6日 開拓の歴史 積み重ね 馬毛島[4] 失われゆくもの |
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![]() 島の北東部に立つ「漁区記」碑は、南海12島の領主種子島氏が朝鮮出兵や海の警防に働いた種子島の浦人に漁業権を与えたと記す。碑文を署した平山寛蔵は士族で、馬毛島の漁業基地以外を禄地としたが、明治維新で政府に返した。 1994年に84歳で亡くなった郷土史家平山武章さんは寛蔵の孫だ。未出版で「年譜馬毛島異聞」と題した原稿100枚が残る。 1183(寿永2)年から1890(明治23)年に至る種子島家の公式記録「種子島家譜」を軸に馬毛島の歩みをたどっている。 導入部は、第8代島主清時の長子三郎の記録だ。 「人と為り暴悪にして家を嗣ぐの器に非ず、群臣相議し、佯 三郎が17歳で殺されたのは跡継ぎを巡るお家騒動だったとの説が紹介される。 「異聞」は続く。 江戸時代、若いシカの角は貴重な薬とされ、マゲシカを島津家に贈った。ソテツの実は飢饉で「数百千人」の命を救った。屋久島の木材交易を監視する船見番所の股置……。 明治初期には士族が畜産会社「牛牧舎」を設立し、クロマツなど16万本を植樹して放牧した。やがて国による羊の試牧場となり、約500頭を委託管理する。 太平洋戦争では丘の上に海軍のトーチカが建ち、機開銃を備えた。大戦末期、羊は種子島に移され、シカは守備兵に間違えられて米軍機の機銃掃射を受けた。 馬毛島北西部の王籠 武章さんの長男匡利 馬毛馬の99%を有するタストン・エアポート社の掘削開発は、島の南西部にある弥生後期の椎ノ木遣跡にも迫る。埋葬されていた人骨は、縄文人のルーツ研究の貴重な資料とされる。 「異聞」の末尾にこう書いてある。「馬毛島の明日を知るものが、ただ『時』だけであるとすれば、これは余りにも淋しいことであり、私達自身、知恵のなさを後世に恥じなければなりますまい」(八板俊輔)=おわり |