しんぶん赤旗 2011年9月10日
原発撤退へ 立地を拒否した町で
兵庫・旧香住町 議会26人中誘致反対は2人
賛成多数からの大逆転
雪の山越え全戸ビラ/町史初の300人デモ

 日本海に面し、夏は海水浴客でにぎわう兵庫県香住町(合併で現香美町)三田浜。「静かないいところでしょう」。民宿を営む福田昌子さん(69)は話します。1967年11月、県と町はこの三田浜に関西電力の原子力発電所を誘致すると発表します。「ふるさとが危ない」。町民が立ちあがり、日本共産党と力を合わせて原発の危険住を訴えて回り、3年後、当時の町長が建設断念を表明しました。草の根からの運動の勝利でした。(兵庫県・秋定則之)
 3月の福島原発事故後、「原発なくせ」の世論が全国で広がるなか、党但馬地区委員会は5月、三田浜原発設置をやめさせた町民の運動を「但馬民報」にまとめ、原発待集の「しんぶん赤旗」号外とともに、但馬全域3市2町に3万5千枚を配布しました。  ビラを読んだ町民から「当時は賛成していたが、いまの事態をみて共産党が誘致に反対してくれてよかった。感謝している」「44年前にこんな闘争があったのか。初めて知った」との声が続々と寄せられています。

お金か子孫か
 原発建設の動きが強まったのは60年代から。町は65年、原子力発電所誘致対策委員会を発足させました。  「絶対安全と言えない原発ができたら、目に見えない放射能で町は終わりになってしまう」。福田さんは、家族で話し合い、反対運動に加わります。
 町民有志は、原発の危険性を告発したガリ版印刷のビラを町の全戸に配って回りました。雪の中、夫たちと山越えしてビラを配ったこともあります。
 「放射能による恐ろしい影響は子々孫々にまで及びます。お金が大事か、命が大事か、子孫が大事か」。菓子箱の裏に書いた原稿を読み、宣伝力ーで町民に訴えました。
 学習会や演説会を開きました。会場で帽子を回してカンパを呼ぴかけ、ビラの紙代を捻出しました。

「知るほど危険」
 「20世紀ナシ」づくりのリーダーの吉川邦夫さん(74)が日本共産党の有田晃・香住町議(85)=当時=とともに、京都大学の湯川秀樹博士ら研究者を何度も訪問。原発の温排水には微量の放射性物質が含まれることもわかり、「知れば知るほど危険なものだ」と運動に拍車がかかりました。
 とこらが神戸新聞は当時、「発電所の方は、もう心配の時代を卒業した」と書き、原発“安全神話”をふりまきました。
 「原発からの固定資産税で、三田浜への道路舗装もできる」「雇用が増える」などと賛成意見もでて、町民の意見が真っ二つにわかれ、町議会は26人中24人の町議が原発に賛成。ナシの出荷の際にえり分ける選果を原発賛成派、反対派で別べつにするほど町民同士が対立しました。
 有田町議は、原発の視察や学習会を町に要求し、町民と調査を重ねました。町議会で追及し、町民学習会では手づくりのパネルを使って説明しました。
 有田町議の活動を抑えようと、関電は機会をみて再三、付け届けをしましたが、すべて受け取りを拒否しました。町幹部の圧力にも「香住町には原発はマイナスばかり」と筋を通しました。
反対の声多数に
 くり返し開いた原発の学習会。日増しに建設反対の声が広がり、区の総会で反対決議をあげました。町長らと8時間以上にわたって交渉し、原子力・火力発電所反対の但馬地区総決起集会には、300人の町民らが参加。「町始まって以来」のデモ行進をしました。
 漁師たちは「魚が売れなくなる」と海上デモで建設反対の声をあげ、原発反対の声が町民多数となりました。
 町長は70年9月の町議会で、「調査研究を見合わせる」と棚上げを表明しました。
 党の原発ゼロをめざす「提言」に共感した浜上勇人香美町議(49)=無所属=は「当時の先輩諸氏が反対し、原発を建設させなくてよかったと思います。海上風力など原発に頼らない自然エネルギーを誘致したらどうでしょう」と話しています。

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